Cativos asiáticos nas malhas da Inquisição: mobilidades culturais entre o Índico e Portugal (séculos XVI e XVII)/ 異端審問所の網にかかったアジア人奴隷——インド洋とポルトガルのあいだの文化的モビリティ(16・17世紀)

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(訳文) 異端審問所の網にかかったアジア人奴隷——インド洋とポルトガルのあいだの文 化的モビリティ(16・17 世紀) Patricia Souza de Faria1 パトリシア・ソウザ・デ・ファリーア

1631 年にリスボンで、ある若いインド人奴隷がポルトガル人異端審問官に、 インド洋沿いの遠隔地での物議をかもす人生経験について陳述していた2。ゴン サーロ・ファリーア(Gonçalo Faria)の陳述は、近代における奴隷の人々の軌跡 の大きな特徴の1つである激しいモビリティを証明している。それは「文字ど おりの動き」(陸上あるいは海上の移動)であるとともに、財の交換と文化や 学識の伝達を伴い、様々な人生経験を促し、「文化的モビリティ」の進展をも たらした。さらに、近代の植民地化の影響と移動(自発的であれ強制的であ れ)の触媒作用によってアイデンティティに破壊的な力が加わり、それはより 流動的で不安定なものになった3。 インド人解放奴隷ゴンサーロ・トスカーノ(Gonçalo Toscano)4と前記奴隷ゴ ンサーロ・ファリーアのように、激しい「文化的モビリティ」を経験したアジ ア出身奴隷に関する2つのケーススタディを紹介する。彼らは伝統的な国境に 挑戦する実践や信仰、「アイデンティティ」を受け入れたため、こうしたモビ リティは物理的移動の面でも文化的移動の面でも認められる。両名とも文献情 報5におのれの信仰や感情、日常的実践の密かな痕跡を残しており、それを通じ て彼らのキリスト教世界とイスラム教世界のあいだの往来と、期待や試みよう とした(制約はあれども可能な)選択肢にアプローチできる。異なる政治的支 配地・信仰領域のあいだを移動しながら、異なる社会的・文化的資源を利用し、 自らそれらに巻き込まれたり遠ざかったりしながら生き残りを図り、異端審問 所によって「イスラム教の罪」で告訴されたこの奴隷たちの信仰と宗教的実践 の世界を理解することを目指す6。 2つのケーススタディを紹介する前に、長距離貿易、特に贅沢品の扱いの一 部となったインド洋における奴隷化された人々の「移動」について論じる7。奴

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隷にされたアフリカ人のインドへの到達はアラビア半島経由8でも可能だったが、 アフリカとインドの直接貿易によることも可能で、直接貿易ではデカン及びグ ジャラート(いずれもインド西岸)、ベンガルの各市場との関係が突出してい た9。インド洋のすべての大都市には奴隷市場があり、アフリカから連れて来ら れた奴隷とアジア人の奴隷が商品化されていた10。 ポルトガル人はこの貿易に参入し、既存ルートの活用を試み、インド原産品 をアフリカで金や象牙、奴隷と交換する貿易の仲介業に携わった。ポルトガル 人は同地域におけるイスラム教徒の支配を打ち負かすべく、奴隷販売ルートな どの古来の交易路で活躍した。しかし、香辛料その他の製品の交易をゴアを経 由させるなど、ルートを自らに有利に迂回させることで、貿易に地理学的・社 会学的ないくつかの変化をもたらした11。 アフリカで獲得した奴隷は「ポルトガル領インド」、すなわちゴアやダマン、 バサイン、ディウなどのポルトガル人定住地域へと運ばれた。17 世紀にはアフ リカ人奴隷の輸入は減少したが、これはおそらくポルトガル人がムラカとマニ ラ経由でベンガルとビルマの南東から獲得できる売買用「アジア人」奴隷に投 資したことと関連しているであろう12。これら「アジア人」奴隷の一部は転売さ れ、メキシコなどスペイン植民地の市場に向けられた13。さらに、アジア人の仲 介業者が日本人、中国人、インド人を捕獲し、ポルトガル人に販売した14。文献 には、ポルトガル人所有者のものであったインド各地(北部、南部、ベンガル 湾)やセイロン、ムラカ、ジャワ、中国、日本の奴隷に関する言及がある15。 ゴアは大西洋とインド洋を結ぶ海上交易において戦略的位置を占める地域だ った16。それはインド航路(ゴア港とリスボン港を結ぶ航路)やアジア間交易航 路のお陰であり、またアジアの他地域やポルトガルへも流通した奴隷の重要な 市場だったからである。ゴアでは、ポルトガル人の各戸に約 10 人の奴隷が生活 していたと推定されるが、裕福な女性が 300 人も抱えることもあった17。ポルト ガル人はゴア以外にも、ディウ、ダマン、バサインで多くの奴隷労働力を使用 した。バサインでは 1630 年代に、400 人のヨーロッパ人と 200 人の現地人キリ スト教徒を含む人口の中に約 1800 人の奴隷がいた18。 バサインはゴンサーロ・トスカーノが暮らした場所である。彼は 1574 年ころ、 デカン高原のバラガート地方で生まれた。ゴンサーロ・トスカーノは約 16 歳で

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キリスト教の洗礼を受けると、すぐにバサイン(の主人の家)からガリアナ (現在のカリヤーン)へと逃亡し、そこで母親を探し、母親は彼をムスリムに なるよう説得した。こうしてイスラム教徒の衣服(被り物とチュニック)をま とってイスラムの名前を名乗り、割礼を受けてモスクに通った。 しかしその2年後、バサインの主人(マテウス・カルヴァーリョ)の家に戻 り、教会に己の罪を告解した。カトリックとして3年間暮らし、キリスト教徒 の衣服をまとってキリスト教の名前を名乗り、教会に通い——やがて盗みに関わ り投獄された。次に、そこを脱獄し、ムスリムで構成される武装集団の一員と なり、その集団はキリスト教徒と戦った。しかしムスリムのあいだでは、ゴン サーロ・トスカーノは実はポルトガル人側のスパイだと思われ、疑いの目で見 られた。それゆえ逃亡奴隷はアフマドナガル王国に連行され、そこで1年間拘 禁された。 ゴンサーロ・トスカーノは再び逃亡に成功し、ヨガの苦行者という新たな 「アイデンティティ」を身につけて、ディウに到着すると、フランシスコ会に 助けを求めたが、キリスト教徒に敵対して戦ったことが原因でポルトガルの要 塞の指揮官によって投獄された。しかし、再び逃亡に成功してイスラム教徒の 地へと向かい、改めてムスリムの「アイデンティティ」を身につけ、やがて自 分の経験談を数名のポルトガル人兵士に語ったところ、兵士らによってバサイ ンへ、その後ゴアへと送られた。その街で、ゴンサーロ・トスカーノは異端審 問官による7回の審理のなかで告解し、自分が経験した様々な土地のあいだの 頻繁な移動と文化的変遷について陳述した。 ゴンサーロ・トスカーノの陳述は、「先験的に」相容れない信仰や実践がい かに共存し、相互に浸透していたかを証明している。トスカーノは心からキリ スト教徒だと述べたが、イスラム教徒のなかで暮らした時にはマホメットの教 義も信じていた。従って、キリスト教徒だった時は聖母マリアと聖フランシス コに心から祈り、イスラム教徒だった時はマホメットに祈った。たとえムスリ ムのアイデンティティを身につけている時に、聖母マリアと聖フランシスコに も祈ったとはいえ。ゴンサーロ・トスカーノの事案の重大さを踏まえ、ゴアの 異端審問官が考慮したもっとも賢明な方法は、同人をポルトガルに送ってリス

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ボンの異端審問官に任せ、被告がかくも易々と横断したイスラム王国から遠ざ けることだった19。 異端審問所に尋問されたもう1人の被告である前述の奴隷ゴンサーロ・デ・ ファリーアは、他のアジア出身奴隷と同じようにポルトガルに連行された。す なわち、インド航路の船乗りに連れて行かれ、その後船長のサンショ・デ・フ ァリーアに売られた。実際、ポルトガルの役人の一部には、インド航路の船舶 でアジア人奴隷を 1 人か2人を運ぶ特典があった。掌帆長や甲板長、操舵手は それぞれ2人の奴隷を、運賃や関税を支払わずに運ぶことができた。17 世紀の 初めには、ポルトガルの船舶は平均して 100 人ないし 300 人の奴隷を積んでゴア を出発した。これらアジア人奴隷の一部は、所有者への奉公、あるいは売却目 的で所有者自身によって運ばれていた20。 前述の奴隷ゴンサーロ・ファリーアは、リスボンの異端審問官に対し、自分 はダマンで生まれそこで洗礼を受け、ヴァスコ(サンショ・ファリーアの奴 隷)とジェロニマ(両名ともインド出身)の私生児であると陳述した。この若 い奴隷は 14 歳の時に、「女主人であるボアヴェントゥーラ夫人が(ゴンサー ロ・フィーリョは)自分の夫ジョアォン・フレイレ・デ・ソウザ」と自分の母 ジェロニマの息子であると思い「彼を嫌い処遇が悪かったことがきっかけ」で、 逃亡してスラートに向かう船に乗ったところ、船はイスラム教徒の支配下に置 かれていた。この奴隷はその地域からやはりイスラムの長が支配する様々な集 落へと向かい、やがて「マハメデ・カォンという名の騎兵隊長と一緒になり、 彼と共にそこから2レグア(訳注:ポルトガルの距離の単位)先の集落へ行っ た」21。 このムスリムの隊長は逃亡奴隷に多くのことを約束した。「馬や衣服、女を 与え、不足する物はなにもないと言った」。それゆえ、ゴンサーロ・ファリー アにとってイスラム教徒の土地への移動とイスラム教への改宗は、力と栄誉、 悦楽を手にする機会といった素朴で甘味な意味に覆われた。こうして、ゴンサ ーロ・ファリーアは5年間ムスリムの「アイデンティティ」(氏名、衣服、習 慣)を身にまとった。しかし、イスラム教徒の地上の楽園はこの奴隷の期待を 満たさなかったらしく、カンベイから来るキリスト教徒やイエズス会の神父と

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話し合った後、ディウへと向かい、その後ダマンへ行き、ポルトガル人の元主 人の家に戻った。 ゴンサーロ・ファリーアはダマンからゴアに連れて行かれ、インド航路の船 員に売られ、ポルトガルに連れて行かれた。リスボンでは、この奴隷は 1631 年 に主の家から逃亡したが、7 日ないし 8 日放浪した後、サォン・ロッケ教会の神 父を訪ね、告解した。インドでの体験の重大さゆえ、リスボンの異端審問官の 下へ送られ、審問官に告解した。 異端審問所による判決を受けたアジア人奴隷のケーススタディからは、大筋 において、これらの奴隷の人生を特徴付ける激しい「モビリティ」が明らかに なる。東洋では、こうしたモビリティは交易路を通じた財の流通によって促進 され、人間もまたこのルートで取引された。それに加えエリートの往来と現地 の王国同士の対立が脱走者たちに機会を与え、彼らはポルトガルの軍隊やムス リムの長によって隊員にされることがあった。政治的国境の通過は文化的な変 身も強い、新たなアイデンティティへの適応を証明する外的記号を身につけた りする必要があったが、両奴隷が次々と受容しては放棄したキリスト教徒とイ スラム教徒のアイデンティティのように、絶え間ない変化を被りやすかった。 我々が「アジア人奴隷(escravo asiático または cativo asiático)」という名称を 用いる際には、「血統」または「出身地」といった観念に基づく「自然状態 の」文化という観念をいっさい排除する。なぜならこれらの奴隷はインド洋の 力学がもたらした経験によって強い衝撃を受け、それが激しい文化的変容を促 したからである。同様に、イスラム教世界とキリスト教世界があたかも相互に 通信・交通不能な形で存在したかのような両者の観念的分離も排除する。これ らの奴隷の信仰と宗教的実践の歴史を研究する際には、あたかも人類の移動の 歴史から独立したものであるかのように、あたかもインド洋からポルトガルま での多くの国境を——ゴンサーロ・ファリーアとゴンサーロ・トスカーノのよう に——横断した人々の移動に思想のモビリティが追随しないかのように見なして はならはない。

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リオデジャネイロ連邦農科大学(UFRRJ)教授。本研究の実施に対するブラジル国立科学技術 推進機構(CNPq)およびリオデジャネイロ州研究支援基金(FAPERJ(APq-1))の支援に、ま た本会議への参加に招待くださった Lúcio de Sousa 博士並びに Maria Manso 博士に感謝する。 2 トーレ・ド・トンボ国立公文書館(Arquivo Nacional da Torre do Tombo、以下 ANTT), TSO, IL8089-1. 3 S. Greenblatt et al. Cultural Mobility. New York: Cambridge Univ. Press, 2010, p.14, 250-253. 4 ANTT, TSO, IL – 4931. 5 異端審問所関連の原典(ANTT-TSO, IL-8089-1 e 4931)のほかに、以下を参照した。ゴア歴史公文 書館(Arquivo Histórico de Goa, HAG), Cód. 860 及びポルトガル国立図書館(Biblioteca Nacional de Portugal, BNP); Cód. 203。調査方法は以下に着想を得ている。A. Stella. Histoire d’esclaves dans la Péninsule Ibérique. Paris, Éditions EHESS, 2000; C. Ginzburg. O fio e os rastros. São Paulo: Companhia das Letras, 2007, p.280-293; C. Anderson. Subaltern. Cambridge University Press, 2012. 6 N. Z. Davis. Trickster travels. New York: Hill and Wang, 2006, p. 11. 7 Alpers et al. (org.). Slavery and resistance in Africa and Asia. London/ New York: Routledge, 2005; Campbell (org.). The structure of slavery in Indian Ocean Africa and Asia. London: Frank Cass, 2004; Médard (org.). Traites et esclavages en Afrique Orientale et dans l’Océan Indien. Paris: Karthala, 2013. 8 Elikia M’Bokolo. África Negra. Salvador: EDUFBA; São Paulo: Casa das Áfricas, 2011, t. 1, p. 237; Richard Eaton. A Social History of the Deccan (1300-1761). Cambridge: Cambridge University Press, 2005; G. Marcocci Tra cristianesimo e Islam: le vite parallele degli schiavi abissini in India (secolo XVI). Società e storia, 138, 2012, p. 807-822; Gina Antunes. Os abexins no Decão e no Guzerate no século XVI. Lisboa (Dissertação em História), Universidade Nova de Lisboa, 1997, p. 17. 9 Elikia M’Bokolo, op.cit., p. 241. 10 S. Subrahmanyam. Notas sobre a mão de obra na Índia pré-colonial (séculos XVI a XVIII). In: Eduardo França Paiva & Carla Maria Anastasia. Trabalho mestiço. São Paulo: Annablume, 2002, p. 475. 11 Elikia M’Bokolo, op.cit., p. 302; Manoel Lobato. Relações comerciais entre a Índia e a costa africana, Mare Liberum, 9 (Julho 1995), p. 164; Gina Antunes, op.cit., p. 53. 12 ゴアにおけるアフリカ人奴隷の売買が廃止されたことは意味しない。Pedro Machado. An Ocean of Trade: South Asian Merchants, Africa and the Indian Ocean. Cambridge Univ. Press, 2014. 13 太平洋経由でアメリカに運ばれたアジア人奴隷について。D. Oropeza Keresey. La esclavitud asiática en el virreinato de la Nueva España. 1565-1673, História Mexica, V. LXI, n.1, 2011, p. 5-57; T. Seijas. Asian Slaves in Colonial Mexico. Cambridge University Press, 2014; "The Portuguese Slave Trade to Spanish Manila: 1580-1640. Itinerario, no. 32 (1): 19, 2008; MANSO, Maria de Deus B. & SOUSA, Lúcio de. Os portugueses e o comércio de escravos nas Filipinas (1580-1600). Revista de Cultura/ Review of Culture, Macau, nº 40, Outubro de 2011; セビリアにおけるアジア人奴隷について。Juan Gil. La India y el Lejano Oriente em la Sevilla del Siglo de Oro. Sevilha: ICAS, 2011; 極東における奴隷制につ いて。Maria de Deus Manso & Leonor Seabra. Escravatura, concubinagem e casamento em Macau: séculos XVI-XVIII. Afro- Ásia, n. 49, 2014; Rômulo Ehalt. As faces da escravidão colonial e asiática em Macau e Manila (séculos XVI e XVII), ANPUH-RIO, 2014 での発表. 14 Jeanette Pinto. Slavery in Portuguese India. Bombay: Himalaya Publishing House, 1992, p. 36. 15 ポルトガル国立図書館(BNP), Cód. 203. ゴアでは、17 世紀末、隣接地域、西ガーツ山脈出身の 奴隷は豊富だった(HAG, Cód. 860). 16 A.J. Russell-Wood. The Portuguese Empire. Johns Hopkins University Press, 1998, p. 27. 17 S. Subrahmanyam. O Império Asiático Português. 1500-1700. Difel, 1995; Idem, Notas sobre a mão de obra na Índia..., op. cit.; M. Pearson. Os portugueses na Índia. Lisboa: Teorema, 1987, p. 109. 18 Jeanette Pinto. The decline of slavery in Portuguese India with special reference to the North. Mare Liberum, 1995, p. 235- 236. 19 ANTT, TSO, IL – 4931. 20 J. Fonseca. Escravos e senhores na Lisboa quinhentista. Lisboa, Colibri, 2010, p. 68, 136; A. Stella, op.cit.; A. Saunders. História social dos escravos e libertos negros em Portugal (1441-1555). Lisboa, Imprensa Nacional/ Casa da Moeda, 1994, p.15, 106. 21 ANTT, TSO, IL-8089-1.

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